落第

 其頃東京には中学と云うものが一つしか無かった。学校の名もよくは覚えて居ないが、今の高等商業の横辺あたりに在あって、僕の入ったのは十二三の頃か知ら。何でも今の中学生などよりは余程よほど小さかった様な気がする。学校は正則と変則とに別れて居て、正則の方は一般の普通学をやり、変則の方では英語を重おもにやった。其頃変則の方には今度京都の文科大学の学長になった狩野だの、岡田良平なども居って、僕は正則の方に居たのだが、柳谷卯三郎、中川小十郎なども一緒だった。で大学予備門(今の高等学校)へ入るには変則の方だと英語を余計やって居たから容易に入れたけれど、正則の方では英語をやらなかったから卒業して後更に英語を勉強しなければ予備門へは入れなかったのである。面白くもないし、二三年で僕は此中学を止めて了しまって、三島中洲先生の二松学舎へ転じたのであるが、其時分此処ここに居て今知られて居る人は京都大学の田島錦治、井上密などで、この間の戦争に露西亜ロシアへ捕虜になって行った内務省の小城なども居ったと思う。学舎の如ごときは実に不完全なもので、講堂などの汚きたなさと来たら今の人には迚とても想像出来ない程だった。真黒になった腸はらわたの出た畳たたみが敷いてあって机などは更にない。其処そこへ順序もなく坐り込んで講義を聞くのであったが、輪講の時などは恰度ちょうどカルタでも取る様な工合ぐあいにしてやったものである。輪講の順番を定めるには、竹筒たけづっぽの中へ細長い札の入って居るのを振って、生徒は其中から一本宛ずつ抜いてそれに書いてある番号で定きめたものであるが、其番号は単に一二三とは書いてなくて、一東、二冬、三江、四支、五微、六魚、七虞、八斉、九佳、十灰と云った様に何処迄どこまでも漢学的であった。中には、一、二、三の数字を抜いて唯東、冬、江と韻許いんばかり書いてあるのもあって、虞を取れば七番、微を取れば五番ということが直すぐに分るのだから、それで定きめるのもあった。講義は朝の六時か七時頃から始めるので、往昔むかしの寺子屋を其儘そのまま、学校らしい処などはちっともなかったが、其頃は又寄宿料等も極きわめて廉やすく――僕は家から通って居たけれど――慥たしか一カ月二円位だったと覚えて居る。
 元来僕は漢学が好で随分興味を有って漢籍は沢山たくさん読んだものである。今は英文学などをやって居るが、其頃は英語と来たら大嫌だいきらいで手に取るのも厭いやな様な気がした。兄が英語をやって居たから家では少し宛ずつ教えられたけれど、教える兄は癇癪持かんしゃくもち、教わる僕は大嫌いと来て居るから到底とうてい長く続く筈はずもなく、ナショナルの二位でお終しまいになって了 しまったが、考えて見ると漢籍許ばかり読んでこの文明開化の世の中に漢学者になった処が仕方なし、別に之これと云う目的があった訳でもなかったけれど、此儘このままで過ごすのは充つまらないと思う処から、兎とに角かく大学へ入って何か勉強しようと決心した。其頃地方には各県に一つ宛位中学校があって、之これを卒業して来た者は殆ほとんど無試験で大学予備門へ入れたものであるが、東京には一つしか中学はなし、それに変則の方をやった者は容易に入れたけれど、正則の方をやったものだと更に英語をやらなければならないので、予備門へ入るものは多く成立学舎、共立学舎、進文学舎、――之は坪内さんなどがやって居たので本郷壱岐殿坂の上あたりにあった――其他之に類する二三の予備校で入学試験の準備をしたものである。其処そこで僕も大いに発心ほっしんして大学予備門へ入る為に成立学舎――駿河台するがだいにあったが、慥たしか今の蘇我祐準の隣だったと思う――へ入学して、殆ほとんど一年許ばかり一生懸命に英語を勉強した。ナショナルの二位しか読めないのが急に上の級クラスへ入って、頭からスウヰントンの万国史などを読んだので、初めの中うちは少しも分らなかったが、其時は好すきな漢籍さえ一冊残らず売って了しまい夢中になって勉強したから、終ついにはだんだん分る様になって、其年(明治十七年)の夏は運よく大学予備門へ入ることが出来た。同じ中学に居っても狩野、岡田などは変則の方に居たから早く予備門へ入って進んで行ったのだが、僕などが予備門へ入るとしては二松学舎や成立学舎などにまごついて居た丈だけ遅れたのである。

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